ごつごつした骨

日記です

毎日奥歯が病んでいる

2022年になってからほぼ毎日親知らずが痛んでいる。

私の下顎の左右それぞれに親知らずが生えているのだが、不器用で照れ屋の彼らは斜めに、ちょこんと頭を出している。

歯磨きする際、親知らずもきちんと磨かなければ口臭の原因になるため、ガシガシ磨くのだがそうすると歯ブラシのヘッドが、親知らずに突き破られめくれた歯茎をさらにめくり上げる。奥の歯茎に鈍痛が走り、流れ出した血液で歯ブラシが薄いピンク色になる。

一体どうしてこんなに苦しい思いをしながら生きていかなくてはならないのか。大学に通っていた4年の間に親知らずを抜くチャンスなどいくらでもあったはずだ。大学生の夏休み冬休みは1ヶ月以上もあるのだから。抜歯後の疼痛に耐えるには十分な期間である。

親知らずは無理して抜くものではないという言説を信じて抜歯していなかったが、それが今になって急激に悪さをし始めた。私の下顎の親知らずたちは不完全に生えているのがまたたちが悪く、めくれた歯茎の隙間には食べ物などが挟まりそうだし不衛生極まりない。メカニズムがよくわからないが、ガンガンと痛む歯痛はやがて頭痛を引き起こし、最悪の連鎖を生む。ひどい歯痛はそんじょそこらの鎮痛薬では歯止めが効かない。骨を震わせるような強烈な痛みが脳髄をガンガンと揺さぶるあの感覚、できれば味わいたくない。

さらに、上手く生えることすらできず照れ臭そうに頭を出している不器用な親知らず共は、私の性格によく似ていて煩わしく、腹立たしい。早く歯医者に行かなければならないのだが、歯医者で治療をすることで潰れる休日のことを考えるとどうにも気が進まない。こんな怠惰な私を待ち受けるのは、熟れすぎたトマトのような歯茎になる歯周病や、総義歯の未来であろう。夢も希望もない。

峯田和伸

日記を書く気力がわりと持続していて、これはとても良いことのような気がする。


一番最初の投稿で、銀杏BOYZをよく聴くみたいなことを書いた。 ファン歴の長い狂信的なファンとまではいかないが、まあまあ拗らせた感じの痛いファンかもしれないと思う。

峯田の歌う詞に鬱屈した自分を重ねて、私の全てを代弁してくれている!と感動したり、甘くて美しい夢みたいな恋の歌にうっとりしたりするのはとても快い。銀杏BOYZを聴きながらそういう夢想に浸るのが20半ばになってもまだまだやめられない。学生時代に得られなかった青春の追体験のような、甘酸っぱいような苦いような不思議な気持ちになれる。

銀杏は陰キャ御用達の音楽みたいな感じだが、陰キャが自分の人生に絶望しbad入っている時に恋の歌を聴くとめちゃくちゃ自殺したくなるという危険性もある。峯田が歌う「君」に相当する人物は、私の人生において存在せず、峯田は私の代弁者ではないのだと自覚することは当たり前のことながらキツい。「自己は自己、他者は他者」という線引きをこの年になってもできていないのは相当しんどいし気持ちが悪い。


実は、春の「僕たちは世界に帰ることができない☆」の1公演に行った。

ある一曲を演奏する前に峯田が「この歌を歌うと過去の自分が足に纏わりついてくる。昔の黒い気持ちに取り込まれそうになる。今はそんなことないんですけどね」みたいなことを言っていて(詳細な発言は詳しい方のレポとか円盤とかで確認してほしい)その発言になんとなく救われた気がした。峯田ほどになっても過去の暗い記憶に悩まされることは無くならないのなら、自分の悩みなど矮小なものに思える。

ちなみにこのMCの直後に演奏した曲は「トラッシュ」だったのだが、曲を作った当時とは違ってある程度満たされた峯田の歌う「幸せそうな恋人たちを電動ノコギリでバラバラにしたいよ フェラチオされたいよ」という詞は、何かすごく含みを感じて素晴らしかった。


こんなに多くの熱量の高いファンがたくさんいて、たくさんの人間から愛されて、富も名誉もあるだろうに峯田はまだ何が足りないんだろうと考えることがある。でも「生きたい」で峯田が歌うことがその答えなのかもしれないとも思う。何か満たされなくて満たされたくて表現の道で生きることを決めた人間の欠如したところは、多くの人に承認されようが何をしようがどうしても埋まらないような、なんとなくそんな気もする。

何かが欠けていて、ずっと器が完全には満たされないがそれでも表現をやめずに生きている人間の存在にわたしは勇気づけられている。どうか永遠に生きてほしいと思う。

飽きる女

ログインできなくなったり書いてはやめたりを繰り返して投稿が全然できなかった。まあ日記だからそういうのもありかもと思う。


就職して新社会人になったはいいが社会不適合を大いに発揮してしまい仕事ができなすぎてつらく泣いてばかりの日々で、そういうつらさを書く避難所にするはずだったが怠惰な性格のためそれすら無理だった。三日坊主にすらなれない怠惰っぷり、見事なまでのダメ人間だ。

ダメ人間の社会不適合者なりに頑張っているつもりだが1年経過したところで5月病を発症しまた辞めたくなっているのでブログに吐き出しにきたのである。メンタルが弱すぎる


仕事の日々のプレッシャーやストレスに耐えられないので工場勤務したいと祈る毎日を送っている。工場勤務こそめちゃくちゃ大変なのかもしれないが、病院で働くよりたぶん私にとってはいいのではないかと勝手に思っている。今悩んでいる腰の痛みや足のむくみは全く改善しないと思うが、ウンコや小便や血や痰や唾にまみれることがないというのは非常にでかい。工場の種類にもよるだろうが。普段の私はウンコや小便にまみれて仕事をしているので、そういう汚物に関わらなくていいというのは、精神衛生的にとても良い。


これだけ愚痴を言うならさっさと辞めてしまえと思われるだろうが、奨学金がなければ私だって今すぐにでもこの仕事を辞めたい。しかしお礼奉公というシステムがあるため仕事から逃れられないのである。この奨学金の額も社会人2年目の人間が一気に返せるような額では到底ない。進路選択した自分を呪うしかないのである。

そもそも、病棟という場所も患者も全部嫌いなので仕事が苦痛で仕方がない。こんな考え方の人間は病院に勤めるべきではないと思う。自分ではこの考え方を認めたくなかったが、私はたぶん患者がどうなろうとどうでもいいのだと思う。その証拠に普段の私は与えられた仕事を終わらせることしかしていない。私の仕事だから、オムツを替えたり肛門からウンコをほじくったり、人に針を刺して血を抜き取ったりしているに過ぎないのだ。

加えて、看護の素晴らしさ!みたいなものを前面に押し売りしてくる業界の性質が私に合わない。仕事だからやっているだけで己の全てを投げ打って奉仕しようなどという気持ちはとうの昔に失せている。自分が一番可愛い。


早く辞めたい。奨学金を肩代わりしてくれる不動産王や石油王に出会いたい。


内面世界の詩

精神がどうしようもなくなった時には筋肉少女帯を聴くようにしている。

大学受験期のナーバスな心境を支えていたのは、他でもない筋肉少女帯である。受験会場に向かう車の中では「戦え!何を!?人生を!」の鬼リピートしなんとか正気を保っていた。変な高校生だったと思う。


わたしは大槻ケンヂの精神世界が赤裸々に描かれた詞がたまらなく好きだ。

筋肉少女帯の曲の中で最も好きなものは「僕の歌を総て君にやる」なのだが、この曲の正直さと言ったら筋少随一では無いだろうか。詩人でありロッカーである大槻ケンヂが、彼の商売道具である「歌」を総てやると歌っているのだからたまらない。赤裸々で切実な言葉のひとつひとつに心臓を絞られるような切なさが感じられてお腹いっぱいなのに、(メンタルヘルスへの理解が現在ほどではなかった当時に精神薬を飲んでいることを書く歌詞はなかなかのものだと思う)畳み掛けるようなラストのサビの前のギターソロの美しさたるや!世界一良い曲と言わざるを得ない!人気曲投票で5位にランクインしていたのも納得の名曲。これからもずっと好きだと思う。

あそこまで病んだ病んで病み切っていた大槻ケンヂが死なずに生きていることが本当に嬉しい。心の底から良かったなと思う。

レティクル座妄想で「自殺者を乗せた列車が〜」みたいな死に取り憑かれて狂気を歌っていた人が「オーケントレイン」で希望を歌ってくれているのが何年越しの伏線回収なんだ!?という感じで、あまりにも美しい。オーケントレインは眩しい希望の中にも、あまり依存し過ぎるなよ!信仰してくれるなよ!という感じで程よくこちらを突き放してくれる優しさもあり、大槻ケンヂのことが大好き!と思う気持ちが爆発する一曲だ。あー好き!!!


わたしは大槻ケンヂのような、本来隠すべき内面世界が発露しまくりの詞を書く男を愛してやまないキモい癖がある。同様の理由で峯田和伸のことも好きです。挫・人間の下川君の書く詞なんかもすごくすごく好きです。

というように現在進行形で大槻ケンヂと彼らのフォロワーの存在に救われながら生きているので、今度の新譜もとても楽しみ!!こういう話をできる人もいなければSNSのアカウントもないので日記的に書き留めておけると色々と助かる。