ごつごつした骨

日記です

峯田和伸

日記を書く気力がわりと持続していて、これはとても良いことのような気がする。


一番最初の投稿で、銀杏BOYZをよく聴くみたいなことを書いた。 ファン歴の長い狂信的なファンとまではいかないが、まあまあ拗らせた感じの痛いファンかもしれないと思う。

峯田の歌う詞に鬱屈した自分を重ねて、私の全てを代弁してくれている!と感動したり、甘くて美しい夢みたいな恋の歌にうっとりしたりするのはとても快い。銀杏BOYZを聴きながらそういう夢想に浸るのが20半ばになってもまだまだやめられない。学生時代に得られなかった青春の追体験のような、甘酸っぱいような苦いような不思議な気持ちになれる。

銀杏は陰キャ御用達の音楽みたいな感じだが、陰キャが自分の人生に絶望しbad入っている時に恋の歌を聴くとめちゃくちゃ自殺したくなるという危険性もある。峯田が歌う「君」に相当する人物は、私の人生において存在せず、峯田は私の代弁者ではないのだと自覚することは当たり前のことながらキツい。「自己は自己、他者は他者」という線引きをこの年になってもできていないのは相当しんどいし気持ちが悪い。


実は、春の「僕たちは世界に帰ることができない☆」の1公演に行った。

ある一曲を演奏する前に峯田が「この歌を歌うと過去の自分が足に纏わりついてくる。昔の黒い気持ちに取り込まれそうになる。今はそんなことないんですけどね」みたいなことを言っていて(詳細な発言は詳しい方のレポとか円盤とかで確認してほしい)その発言になんとなく救われた気がした。峯田ほどになっても過去の暗い記憶に悩まされることは無くならないのなら、自分の悩みなど矮小なものに思える。

ちなみにこのMCの直後に演奏した曲は「トラッシュ」だったのだが、曲を作った当時とは違ってある程度満たされた峯田の歌う「幸せそうな恋人たちを電動ノコギリでバラバラにしたいよ フェラチオされたいよ」という詞は、何かすごく含みを感じて素晴らしかった。


こんなに多くの熱量の高いファンがたくさんいて、たくさんの人間から愛されて、富も名誉もあるだろうに峯田はまだ何が足りないんだろうと考えることがある。でも「生きたい」で峯田が歌うことがその答えなのかもしれないとも思う。何か満たされなくて満たされたくて表現の道で生きることを決めた人間の欠如したところは、多くの人に承認されようが何をしようがどうしても埋まらないような、なんとなくそんな気もする。

何かが欠けていて、ずっと器が完全には満たされないがそれでも表現をやめずに生きている人間の存在にわたしは勇気づけられている。どうか永遠に生きてほしいと思う。